北京旅行記の第15回をお届けします。

今回は頤和園(いわえん)へ出かけた時のお話を2回に分けて書きたいと思います。まず、その1回目です。
メールのタイトルにいよいよ、と書いた訳はといいますと、頤和園は王朝時代を支配した歴代権力者の専用リゾートであった特別の意味を持つ庭園で、見るべきポイントがとても多く、かつ広大な場所です。
それだけに、個人で旅行する以上は十分な時間をかけてゆっくりと見て歩こう、そんな思いで今回の旅行では後半のハイライトにするつもりで前々から頤和園訪問に特別に意欲を燃やしていたからです。

頤和園は北京市の中心部から北西へバスで約一時間の郊外にある、広大な人口の湖と、贅沢な装飾と大きさを持つ数々の楼閣、そして背後の山に築かれた美しい仏教寺院からなる広くて、美しい大庭園です。
ご存知の皆さんも多い、あの悪名高い西太后が夏を過ごす別荘として愛したことで有名なこの皇室庭園は、紫禁城と並んでツアー旅行では必ずコースに組み込まれる世界遺産の観光地です。
私たち日本人は、一般に庭園と言えば、なにか大きさに一定の先入観をもっているような気がするのですが、ここ頤和園ばかりは庭園と言うにはあまりにも大きく、実態は巨大公園そのものです。
この公園の全体の広さはおよそ290万平方メートル、福岡市の大濠公園の約7.5倍もの大きさですが、ツアー観光旅行ではせいぜい二時間ぐらいしか見ることができません。
その物足りなさを例えれば、野球で言えば三時間の試合をわずか10分ほどのダイジェスト・ニュースで見る感じと言えばお分かりいただけるでしょうか。また一冊の本で言えば目次だけで閉じてしまうようなことと似ています。
せめて一日6〜7時間をかけることができれば、私がこだわりたい数箇所をゆっくり見ることができる、連日の北京歩きの疲労と乾燥した空気によるカゼの症状で私たち二人とも体調は万全ではありませんが、朝から互いに励ましながらバスに揺られてやって来たのでした。

頤和園は中国王朝の歴代皇帝が、絶大な権力と財力、そして時間をつぎ込んで造築した大庭園であることはすでにお話しましたが、ここはまた北京のほかの史跡と同じで、数々の歴史ドラマの舞台となった所でもあります。
紫禁城もそうですが、とても半日や一日ではその全貌を見て回ることはできない広さなのです。でもせめて一日を費やして、過去に私が一度だけツアー旅行で覗いた時の欲求不満を晴らしたいと、北京での6日目、私たちはホテル近くからまず地下鉄でひと駅、その後バスに乗り換えて約一時間、目指す頤和園にこの日午前早めに到着しました。
 頤和園前のバス停でたくさんの観光客とともに下車し、入り口へ歩き始めます。
天気は晴れ時々くもり、時々小雨といった感じで不安定な空模様です。それはいいのですが、例によって入り口周辺のあちこちで改修工事が行われているために、時折吹く強い風に砂ホコリが舞い上がるのでこれには平行しました。私たちはホコリが鼻やノドに入るのを少しでも防ごうと、ハンカチで覆面をして歩くことにしたのですが、まるで西部劇に出てくる駅馬車強盗のようです、互いに見合って笑ってしまいました。

このとてつもない広さの大庭園に入ると、まず目の前に見えるのが広大な湖です。湖の面積は福岡市・大濠公園の池に比べるとざっと見て10倍以上はありそうです。この湖・昆明湖はじつは人工的に掘って造ったものだといいますからビックリしてしまいます。この日は風が強いためにホコリが多いせいか、対岸がかすんで見えます。これだけの湖を人力で掘った!そう思って波立つ広い湖面を見ていると気が遠くなるような気持ちがしてきます。
湖の手前側には万寿山(まんじゅさん)という小高い山があって、山頂近くに頤和園のシンボルとも言われる八層の見事な仏閣、仏香閣(ぶっこうかく)が建てられています。この万寿山ですが、なんと目の前に広がる湖・昆明湖を掘った際に掘り出した土を積み上げて造った人口の山と言うからまたまた驚きます。
ブルドーザーなどなかった時代に人の力だけで広大な湖を掘り、その土で山を築き、そこに巨大で豪華絢爛たる仏閣を建てる、紫禁城の規模にもあきれてしまいますが、このようなスケールの大きい遺産を目の前にすると、中国王朝の絶大な権力と財力に圧倒されてしまいます。
それにしても中国歴代権力者はなぜこうも大きなことが好きだったのでしよう?
奈良の東大寺も、二条城、大阪城などわが国にも巨大な歴史遺産はいろいろとありますが、スケールが全然違うような気がします。
島国と巨大大陸と言う、そもそも領土の広さがまったく違うことにも起因していると思うのですが、中国が世界の中心であるとする「中華思想」と言う精神構造こそが最大の理由であったのだろう、そう考えるのが妥当かも知れません。

頤和園・昆明湖の岸辺からの風景  しかし、大きければ何でもよいのかと言えば、過ぎたるは及ばざるが如しと言います。他の観光スポットにスケールで負けないどころか、むしろ他を圧倒するほどのこの頤和園ですが、19世紀後半に西太后のいわばわがままとゴリ押しで改造、再建されたものです。
その莫大な工事費として軍事費を流用したために清王朝は財政的屋台骨が揺らぎ、その滅亡を早める一因にもなったと言われています。
頤和園は西太后と深い関係のある場所と書きました。自分の子が清朝第10代皇帝、・同治帝(どうじてい)として即位すると、西太后はいわゆる垂簾政治(すいれんせいじ、皇帝のうしろにある御簾の陰で政治を動かすこと)を行い実権を握ります。
同治帝が若くして亡くなると、今度は妹の子をわずか4才で即位させます。これがラストエンペラー・溥儀の一代前の皇帝、溥儀の伯父にあたる光緒帝(こうしょてい、またはこうちょてい)です。
西太后は同治帝と同じく、この幼い光緒帝も好きなようにあやつり実権を握り続けたのでしたが、光緒帝は成長した後、西太后の操り人形から逃れるため、また腐敗しきった王朝政治を日本の明治維新に倣って改革するために一つの政治運動を起こします。
しかしこれが目論見どうりに進まずに失敗、西太后によってここ頤和園の一角に幽閉されてしまいます。 それが玉瀾堂(ぎょくらんどう)と言う一室です。
湖に面した道から中に入ったところを歩いていたら、偶然この玉瀾堂を見つけました。部屋と言うよりは立派な門と、広い前庭を持つ大邸宅といった感じの建物でした。失意の光緒帝が閉じ込められた部屋がどんなものであったのか、ドラマでは見たことがあるその空間を自分の目で見たかったのですが、残念ながら内部を観覧することはできませんでした。
玉瀾(ぎょくらん)とは玉のように美しい波を意味するとか、この趣のある名がついた一室が悲劇の空間になったのは歴史の皮肉です。
ここに幽閉された光緒帝こそまことに哀れで、元来病弱であったこの皇帝は、この逆境を経験したことでさらに病を重くしたのでしょうか、最後は精神も病んでその後間もなく33歳と言う若さで亡くなっています。
例え自分の甥であっても、おのれの権欲のためには平気で死に追いやることをいとわない西太后はなんと冷徹な性格の女性であったことでしょうか。さらにまた、彼女はこの光緒帝の愛した第二夫人珍妃も部下に命じて紫禁城の井戸に投げ込んで殺害していますからなんとも恐ろしい女性であったわけです。
ただ、実際の西太后が悪の権化のようであったかと言うと、全てがそうではなく、聡明で明るく、また女性として可愛い一面もあったとも言われています。清王朝を滅亡に追いやった稀代の悪女も、見方を変えれば、あるいは彼女によって何らかの利益を得た立場のものからは評価される部分を併せ持っていたと言うことでしょうか。
(第15回・頤和園 その一 おわり)
次回も頤和園の続きを書きます、どうぞよろしく。


頤和園その2へ続きます。
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