北京旅行記の第13回目、異なる三つの宗教の教会や寺院を見に行ったお話・その二です。

2.イスラム教寺院、牛街清真寺(ぎゅうがいせいしんじ)
 北京市内中心部から南西に位置するところに、「牛街」と変わった地名で呼ばれる街があります。ここは北京に住む回族(かいぞく)、つまりイスラム教徒の人々が多く住むエリアです。イスラムの人々は豚肉を食べないので、それであえて牛の字を街の名前とした?浅薄な私はついついそんな風に勘ぐってしまうのですが、真偽のほどは不明です。
中国ははるか古い時代から、西からは陸路シルクロードを通って、一方南からは海上交通によってアラビア海、インド洋、南シナ海を経てイスラム圏との交易が盛んに行われてきました。
その結果イスラム教徒である異民族が中国国内に定住するようになります。今からおよそ1000年前、北京にもやって来たアラビア人宣教者によりイスラム寺院が建てられたと言います。これが牛街清真寺の始まりです。
中国には各地に清真の名がつく寺院があります。この字がつく寺はイスラム寺院のことで、街の中にもイスラム料理のレストランやイスラム教徒のための食材店がが結構多くあります。
西域の街々にイスラム教徒が多いのは当然のことですが、ここ北京にもこうした人々が多いのはちょっと不思議な感じがします。
かつてモンゴル族王朝である元の時代、漢民族の力を抑えるために、朝廷は意図的にモンゴルやウイグルからイスラム教徒を北京に移住させたとか。そして同じ宗教を持つ人々同士が宗教上の理由から、また生活上の必要性から、いつの間にかひとところに集まって住むようになった結果、牛街のように住民の80パーセントがイスラム教徒と言うような街が形成されて行ったのでしょう。

キリスト教会南堂を訪ねた後、私たちはそこからそう遠くない牛街にも足を伸ばし、一般に「牛街礼拝堂」と呼ばれることが多いそのイスラム寺院を訪ねました。
入り口を入ろうとしたらそこに小さな部屋があり、おじさんが戸口で「ここは拝観料が要ります」といいます。えーっ、さっき行った南堂は無料だったのに、ちょっと意外に思いましたがおじさんの穏やかな口調と物腰に機嫌を直し、一人10元を渡します。するとおじさんは「ちょっと入らんかね」と小部屋に招き入れてくれます。
「どこから来たの?あなたたちはイスラム教徒なの?」と尋ねてきます。優しさを感じさせる切符売りのおじさんとこうした会話を少しした後、いよいよ小道を通って寺廟の中庭へ入りました。そしてそこで見たイスラム寺院とは・・・・。

イスラム教の教会と言えば丸いドームを持ったタイル張りの建物、と言う先入観が誰にもあると思うのですが、ここ牛街清真寺にはびっくり、まったくイスラムらしくなく、典型的な中国建築がそう広くない境内にいくつか建っています。
建物の形も建築様式も、外側に施された装飾や彩色も中国の伝統建築そのもの、そこに時たま姿を見せる白いイスラム帽をかぶり、立派なひげを生やしている信者や寺院関係者がいなければ誰もここが回教寺院とは気がつかないと思います。

イスラム寺院にて信者の男性の写真 建物の写真を撮っていたら、そこに白いひげの立派な風貌をした、私とほぼ同年輩と見える男性が通りかかりました。白い帽子と白い服、いかにもイスラムの聖職者といった感じの人物です。
「すみません、あなたの写真を撮らせてくれませんか」と丁寧に頼んでみたところ、その人は少し微笑んで「いいですよ」と言ってくれ、彼の容貌と雰囲気とはまるで違和感がある中国風建築の寺院をバックに何枚かの写真を撮らせてくれました。
帰国後この時の写真を改めて見てみると、彼の表情のなんと柔和なこと、人の心を包み込むような優しさが感じられます。
アフガンで、イラクで、パレスチナで流血の争いのニュースを知るたびに、イスラム世界に不安感、恐怖感、嫌悪感といったものを感じることが多いのですが、私たちが訪ねた不思議なイスラムのお寺の静かなたたずまいと、そこで出会った穏やかな人々は、イスラム世界にはまったく両極端な顔があることを感じさせてくれました。

3.チベット密教寺院・雍和宮(ようわきゅう)
 チベット仏教の主なものにラマ教があります。かつてインドに亡命した、あのダライ・ラマ14世もラマ教の世界で生き仏とされた人です。
北京にある有名なラマ教寺院「雍和宮」にも出かけてみました。
紫禁城の北にある景山公園に行った暑い日の午後、私たちは道路工事のホコリが強い風に巻き上げられる道を間違って余分に歩いたすえに、やっとの思いで雍和宮にたどりつきました。
お寺なのに宮殿のような名前のついたこのチベット仏教寺院は、それもそのはず 、もともとは清朝第五代皇帝雍正帝(ようせいてい)が皇太子時代の邸宅だったところです。
清朝時代、皇位についた人の旧宅は誰にも居住を許さず、空き家のままに置いておくのが決まりだったとか。それをなぜラマ教寺院に改装することを許したのかと言いますと、第六代皇帝、乾隆帝がチベットやモンゴル族を懐柔するために、敢えてこの禁を破ったのだと言います。

チベット仏教寺院・雍和宮にて撮影 門を入ると広い庭があり、その真ん中に、中国を感じさせないイチョウの並木が一直線に続く参道があります。また一般の仏教寺院と違って、なぜかここにはヨーロッパ人観光客の姿が多く見られます。
参道の突き当りから次々と現れる仏閣の建築様式は、宗教寺院と言うよりも紫禁城でも見ることができた、あきらかに宮殿様式の特徴が感じられる建物です。
しかし中に一歩入ると、いかにも仏教寺院らしい雰囲気があります。でもなにか普通のお寺とは異質なものを感じます。それは仏像の表情がどれも優しさにはほど遠く、形相険しく見えるのと、壁面などの装飾や色使いがけばけばしく、目に強く入って来すぎるからだとやがて気づきました。
もっとも奥に位置する本殿の万福閣(まんぷくかく)には巨大な弥勒仏があり、この寺院のもっとも有名な観光名物となっています。
私たちもこの建物に入ってビックリ。目の前には、後ろにそっくり返るようにして見上げないとお顔まで見ることのできない巨大な仏像が屹立しています。そばにいる若い僧に「高さは何メートルありますか?」と尋ねると、その僧は「18メートル!」と怒ったような声で答えてくれました。18メートル!後で知ったことですが、この弥勒仏はチベットから運ばれた白檀の巨木からの一木彫り、しかも地下に隠れた部分が8メートルもあり、上下合わせると26メートルの木造としては世界最大の仏像であることが分かりました。
だいたいどこの寺院でもそうですが、仏像の安置された楼閣内は撮影禁止となっています。
それでも堂々とカメラを向ける心臓の強い内外の観光客がいます。そうした心無い連中を制するために、先ほどのような若い僧が配置されているわけです。
私の場合、このすごい仏像に対しては始めから撮影の意思など毛頭もありませんでした。
なぜなら建物の奥行きの狭さに対して仏様の背丈があまりにも高すぎて、広角レンズを使っても画面に写しようがないことをすぐに感じていたからです。
この寺院の境内では暑さと疲労から、私と妻は何度も日陰で休むことを余儀なくされました。熱く乾燥した空気がノドから皮膚から水分をどんどん奪って疲労を加速させます。極彩色の建物の陰で休んでいると、日本で見るものよりかなり大きく、尾の形も違うツバメが次々と飛び交います。声も出しているのですが、動きが敏捷すぎて写真はもちろん鳴き声を録音することもできませんでした。

ここ、チベット密教寺院、雍和宮で私たちの心に強く訴えかけてきたものがあります。
それは外人観光客に混じって若い世代の中国人が結構いたことなのですが、なかでも20代前半に見える女性が多く、彼女たちがそれぞれの仏像の前で、じつに敬虔な祈りをささげる姿を見たことです。その光景は同じチベット仏教寺院のシーンでも、チベットを紹介するテレビ番組で見る、あの貧しい身なりをしたチベットの人々が祈る姿とあまりにも違っています。
現代的でオシャレな服装をした、現在の中国に生きる一見モダンな普通の若い女性たちが、煙がもうもうと立ち上がる線香をかざして、ただひたすら祈る姿はとても不思議な光景として私の目に映り、同時に強く印象に残りました。
私のような、ただ興味のカタマリみたいな視線だけの人間が、そのような祈りの場にいることが申し訳ない気持ちになってきます。朝早くから受け続けたカルチャーショックによる精神的疲労と、体力的な疲労感も大きくなり、私たちは逃げ出すように外に出て、この不思議な宗教空間を後にしました。

今回は欲張って3か所を訪ねたお話を一度にまとめて書きましたので、たいへん長い文章となり、一度に送信することができず、2回に分けて送信することとなり、皆さんにはご迷惑をかけました、お詫びします。読んでくださった皆さんもご苦労さまでした。そして、ありがとうございました。
(第13回・三つの宗教寺院 その二 おわり)
次の第14回目では、宗家の三姉妹の次女・宗慶齢の住んだ家が記念館として公開されているところに出かけた時の話を書きます。

宗慶齢故居から広化寺へ続きます。
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