2.イスラム教寺院、牛街清真寺(ぎゅうがいせいしんじ)
北京市内中心部から南西に位置するところに、「牛街」と変わった地名で呼ばれる街があります。ここは北京に住む回族(かいぞく)、つまりイスラム教徒の人々が多く住むエリアです。イスラムの人々は豚肉を食べないので、それであえて牛の字を街の名前とした?浅薄な私はついついそんな風に勘ぐってしまうのですが、真偽のほどは不明です。
中国ははるか古い時代から、西からは陸路シルクロードを通って、一方南からは海上交通によってアラビア海、インド洋、南シナ海を経てイスラム圏との交易が盛んに行われてきました。
その結果イスラム教徒である異民族が中国国内に定住するようになります。今からおよそ1000年前、北京にもやって来たアラビア人宣教者によりイスラム寺院が建てられたと言います。これが牛街清真寺の始まりです。
中国には各地に清真の名がつく寺院があります。この字がつく寺はイスラム寺院のことで、街の中にもイスラム料理のレストランやイスラム教徒のための食材店がが結構多くあります。
西域の街々にイスラム教徒が多いのは当然のことですが、ここ北京にもこうした人々が多いのはちょっと不思議な感じがします。
かつてモンゴル族王朝である元の時代、漢民族の力を抑えるために、朝廷は意図的にモンゴルやウイグルからイスラム教徒を北京に移住させたとか。そして同じ宗教を持つ人々同士が宗教上の理由から、また生活上の必要性から、いつの間にかひとところに集まって住むようになった結果、牛街のように住民の80パーセントがイスラム教徒と言うような街が形成されて行ったのでしょう。
キリスト教会南堂を訪ねた後、私たちはそこからそう遠くない牛街にも足を伸ばし、一般に「牛街礼拝堂」と呼ばれることが多いそのイスラム寺院を訪ねました。
入り口を入ろうとしたらそこに小さな部屋があり、おじさんが戸口で「ここは拝観料が要ります」といいます。えーっ、さっき行った南堂は無料だったのに、ちょっと意外に思いましたがおじさんの穏やかな口調と物腰に機嫌を直し、一人10元を渡します。するとおじさんは「ちょっと入らんかね」と小部屋に招き入れてくれます。
「どこから来たの?あなたたちはイスラム教徒なの?」と尋ねてきます。優しさを感じさせる切符売りのおじさんとこうした会話を少しした後、いよいよ小道を通って寺廟の中庭へ入りました。そしてそこで見たイスラム寺院とは・・・・。
イスラム教の教会と言えば丸いドームを持ったタイル張りの建物、と言う先入観が誰にもあると思うのですが、ここ牛街清真寺にはびっくり、まったくイスラムらしくなく、典型的な中国建築がそう広くない境内にいくつか建っています。
建物の形も建築様式も、外側に施された装飾や彩色も中国の伝統建築そのもの、そこに時たま姿を見せる白いイスラム帽をかぶり、立派なひげを生やしている信者や寺院関係者がいなければ誰もここが回教寺院とは気がつかないと思います。
3.チベット密教寺院・雍和宮(ようわきゅう)
チベット仏教の主なものにラマ教があります。かつてインドに亡命した、あのダライ・ラマ14世もラマ教の世界で生き仏とされた人です。
北京にある有名なラマ教寺院「雍和宮」にも出かけてみました。
紫禁城の北にある景山公園に行った暑い日の午後、私たちは道路工事のホコリが強い風に巻き上げられる道を間違って余分に歩いたすえに、やっとの思いで雍和宮にたどりつきました。
お寺なのに宮殿のような名前のついたこのチベット仏教寺院は、それもそのはず 、もともとは清朝第五代皇帝雍正帝(ようせいてい)が皇太子時代の邸宅だったところです。
清朝時代、皇位についた人の旧宅は誰にも居住を許さず、空き家のままに置いておくのが決まりだったとか。それをなぜラマ教寺院に改装することを許したのかと言いますと、第六代皇帝、乾隆帝がチベットやモンゴル族を懐柔するために、敢えてこの禁を破ったのだと言います。
ここ、チベット密教寺院、雍和宮で私たちの心に強く訴えかけてきたものがあります。
それは外人観光客に混じって若い世代の中国人が結構いたことなのですが、なかでも20代前半に見える女性が多く、彼女たちがそれぞれの仏像の前で、じつに敬虔な祈りをささげる姿を見たことです。その光景は同じチベット仏教寺院のシーンでも、チベットを紹介するテレビ番組で見る、あの貧しい身なりをしたチベットの人々が祈る姿とあまりにも違っています。
現代的でオシャレな服装をした、現在の中国に生きる一見モダンな普通の若い女性たちが、煙がもうもうと立ち上がる線香をかざして、ただひたすら祈る姿はとても不思議な光景として私の目に映り、同時に強く印象に残りました。
私のような、ただ興味のカタマリみたいな視線だけの人間が、そのような祈りの場にいることが申し訳ない気持ちになってきます。朝早くから受け続けたカルチャーショックによる精神的疲労と、体力的な疲労感も大きくなり、私たちは逃げ出すように外に出て、この不思議な宗教空間を後にしました。
今回は欲張って3か所を訪ねたお話を一度にまとめて書きましたので、たいへん長い文章となり、一度に送信することができず、2回に分けて送信することとなり、皆さんにはご迷惑をかけました、お詫びします。読んでくださった皆さんもご苦労さまでした。そして、ありがとうございました。
(第13回・三つの宗教寺院 その二 おわり)
次の第14回目では、宗家の三姉妹の次女・宗慶齢の住んだ家が記念館として公開されているところに出かけた時の話を書きます。
宗慶齢故居から広化寺へ続きます。
「もくじ」へ戻ります。
最初のベンチへ戻ります。