1937年7月7日(私、良ちゃんが生まれた前年、7が三つ続くので覚えやすい、そのうえ七夕の日)、北京の南西の郊外、永定河(えいていが)に架かる橋、盧溝橋付近で、訓練中の日本軍に対して、なんでもないとも言える小さな発砲事件が起こります。
この事件の処理をめぐって問題がこじれ(意図的にこじれさせた?)、これが発端となって両国は本格的に戦争状態となり、それがやがて太平洋戦争につながり、あの取り返しのつかない不幸な大戦の歴史を生んでしまいました。
その盧溝橋に、私は今回北京へ旅行すると決めた時からぜひとも行って見たいと思っていました。
そのわけの第一は、私の父も戦場で命を落とした、あの忌まわしい先の大戦の発端となった場所を自分の目でぜひ確かめてみたいと思ったこと。
もう一つは、そんな不幸な歴史的な場所なのに、不遜と思われるかもしれませんが、北京に現存する石の橋の中では最古のものと言われるこの橋をぜひ見てみたいと言う、一旅行者としての興味です。
5月13日朝、ホテルへわざわざ迎えに来てくれた韓博明(かん・はくめい)さんの案内で、地下鉄に一駅乗った後、今度はバスに乗り換えて延々1時間、やっと盧溝橋のある街へ到着。その後歩いて橋の方向へ向かいます。
この街は盧溝橋があることで今や抗日戦争のシンボル的な場所となり、中国青少年の教育上の重要な場であると同時に、観光地としても有名になっているようです。
橋の手前約300メートルほどのまっすぐな通りは、多分もともとは田舎の草深い村であったはずですが、今では両側にレストランや観光土産を売る商店街として整備されています。
いよいよ橋の手前まで来ると、そこに「抗日戦争記念館」と言う新しい、と言っても、完成後20年ぐらい経つ立派な建物・施設があります。
盧溝橋事件から始まった長い日中戦争、そして両国にとって多くの悲惨な流血の時が流れたすえに戦勝国となった中国の記念すべき、そして誇るべき場所として、また平和の重要さを国民に教育する施設として、この記念館が作られたと言います。
南京の「南京大虐殺記念館」もそうですが、一日本人としては、このような反日を教育、宣伝することを目的の一つとする施設に入館するのはなかなかに勇気が要ります。中に展示されている内容と、強調されているテーマは入館する前からほぼ察しがつきますし、当日も私たちと前後して大勢の小、中学生が入場していたので、彼らに混じって、それこそ肩を小さくして妻と韓さんの三人で入館しました。
内部の展示物は想像したとおりで、例えば、軍事的には断然有力な当時の日本軍に対して、手作りの原始的な武器や、陶製の焼き物で手作りした手投げ弾などで奇襲攻撃をかける村人の様子が、大掛かりな実物大の人形や山野の模型で再現されたジオラマ、巨大なスクリーンに立体的な映像や音響で戦争シーンを上映する部屋などもあります。
またここにも日本軍による南京での虐殺行為についての多くの写真や資料を展示するコーナーがあります。
まさにこれでもか、これでもか、と旧日本軍の残虐ぶりを訴えかけてきます。後半は反日戦争の英雄たち、新中国建国と発展に尽した偉人たちのコーナーもありますが、全体の印象としては日本人にとっては見るも、聞くもまことに辛い空間となっています。
中国の人たちには悪いのですが、そんなさまざまな展示物の洪水にさらされ続けると、心身ともに疲れてきます。言い方が悪いかもしれませんが、逃げ出すようにして外に出ました。冷房完備の薄暗い館内から外に出ると、そこには真夏のような32度の気温と、強い日差し、そして乾燥した空気が待っていて、いや暑かったこと、まぶしかったこと。でもなぜかほっとした気分になります。中国の友人たち、ごめんなさい。
さて、目的の盧溝橋はいよいよ目の前です。
やっと来たーっ。あの盧溝橋だー。私は思わず心の中で叫びました。橋のたもとでちょっと立ち止まって感慨に浸りたい気分なのに、案内役の韓さんは早くおいで、と私たちをどんどん前方へ誘います。
そこで目にした盧溝橋! 今からおよそ800年前、金王朝の時代に作られた全て石でできた全長267メートル、巾7.5メートル、11個の美しいアーチ型橋脚を持つ素晴らしい橋です。
橋の完成100年後の13世紀、元(げん)の始祖フビライ・ハーンに寵愛され20年も中国に滞在したと言われるヴェネツィアの旅行家マルコ・ポーロもここを訪れ、「東方見聞録」の中で、「世界で最も美しい石の橋」と紹介したと言われています。
その後なんどか改修が繰り返されたのですが、特に明の時代に大改修が行われ、その時に欄干の上に両側あわせて500もの獅子の像が載せられたものが今も見ることができます。
多くはその後も何度も修復されたのか、古いもの、新しいものが入り混じっています。この獅子たちがものすごく面白い。
日本の神社で見られる狛犬のようなものですが、すごいと思うのはこれら500匹もの獅子たちの全てが違った顔と大きさ、そして違ったポーズをしていることです。一つずつ見ていると飽きることがありません。
時間がもっとあれば、一匹、一匹全部をこの目で見て、写真を撮りたいのですが、なにしろ32度の炎天下でもあり、案内役の韓さんもこんなもの何が面白いのと言った顔で、写真を撮りまくっている私たちを、やや冷ややかな視線で見ている気がしたので、それ以上ゆっくりもでぎず、獅子たち全体の三分の一ほどをざっと見て、急いで写真を撮っただけで残りは諦めることにしました。
そんな中、私の視線を奪ったもう一つのものは、橋の中央部の、幅2メートルほどだけ保存された石の路面です。大理石ではないと思うのですが、滑らかな白い、一辺が1メートルほどの石が敷き詰められたその路面は、かつて人や荷車、馬車、牛車などが通った結果、いつのまにか石の比較的柔らかい部分が深くえぐられて大きな凹凸ができています。
石の路面がそこまでデコボコになるのにいったいどれほどの年月が経ち、その間にいったいどれほど多くの人々が、どれほどの荷が馬車や牛車に積まれてこの橋を渡って行ったことでしょうか。
つい半世紀前まで、北京では西のモンゴル平原、さらにその西ゴビ砂漠の方向からラクダの隊商もやって来たといいます。
月明かりの中、この石造りの橋の上を重い荷を背負ったラクダたちが渡って行く光景を、炎天下の盧溝橋の上で空想して私はしばし呆然としていました。
良ちゃん、盧溝橋白昼夢の図、と言ったところでしょうが、主人公が私では一服の絵にもなりません。他の人たちから見ると、ヨレヨレの変なおじいさんが暑さにあたって盧溝橋の上に立ちすくむ、と言う一コマ漫画のような光景だったことでしょう。
なお、すごく長い年月が流れたことを実感したことがあります。
じつはここ盧溝橋の橋の下には広大な川原がありますが、水は一滴もありません、まったく流れていないのです。川はどうなったかと言うと、今では姿をすっかり変えてしまい、200メートルほど離れた場所に建設された新しい橋の下を流れています。
後ろ髪惹かれる思いで橋の付け根部分に帰ってきた私に、韓さんが「ほら、見て。これが有名な乾隆帝が書いた文字が彫られた石碑だよ」と言って教えてくれたのが、清朝第六代皇帝・乾隆帝(けんりゅうてい)の自筆と言われる見事な筆跡による「盧溝暁月(ろこうしょうげつ)」の文字が掘り込まれた大きな立派な石碑です。
「盧溝暁月」の意味は、盧溝橋の欄干から眺めた夜明けの月の美しさを讃えた言葉とのことでして、「北京八景」つまり北京で見られる美しい八つの代表的な景色の一つとされている、ここはとても有名なところだそうです。あとで改めて観光ガイドブックを見たらちゃんとそれが載っていました。
マルコ・ポーロが美しさを絶賛したのに、それがずっと後世になって、奇しくも悲惨な戦争の発端の場所となってしまった盧溝橋、ツアー観光ではなかなか行くことのできないこんなところを見たことで、私たちの自由な、そしてこだわり旅行の目的の一つが達成できた喜びを帰りのバスの中でしみじみと咬みしめたことでした。
(第6回・盧溝橋おわり)