[随筆]   蜩

2007年8月13日、雑草が覆い隠した、さほど険しくもない山道に蝉時雨がふりそそぐ。妻の実家の裏山、遠くに浮岳を望むこの道、子供の頃、何度も駆け登ったであろう妻も歩きにくそうに歩を進める。視力の無い私は、その肩を借り、草に足をとられながらヨロヨロとついて登った。

たどり着いたその場所、5月には、きれいに掃除をし、花を植えていたのだが、今は雑草が茂り、猛暑のためか花も枯れ、拳大の石が積み重ねられた、辛うじてそこが墓だと判る程に荒れ果てていた。この石積みの下には、今年3月に死んだ、我家の愛犬ティコが眠っている。

11年前、ここ妻の実家で生まれた6匹の中で唯一の雌犬。ちょっと様子を見に来たのが縁の始まり。散歩も世話もちゃんとするからと言う二人の娘達の言葉に負け、我が家族の一員となった。だが実際は、多くの家庭がそうであるらしいが、妻が殆どの世話をする羽目になった。まあ、一番飼いたかったのは彼女だったようではあるが・・。

大好きなのが散歩。ところが、雨の日はちょっと様子が異なる。玄関で「散歩に行くよ」と呼んでも知らん顔、迎えに戻って来ると逃げ回る。赤いチェックのレインコートが嫌いなのか、長毛のため、足を濡らすのが嫌いなのか、理由はよく判らない。

テレビでも観ようと床に座ると、直ぐに20p程のロープを持って来て、私の手に擦りつける。綱引きの御所望である。このロープを家族は「ガー」と呼ぶ。引張り合いをする時、ガーガーと喉を鳴らすからだ。「ガーは?」と言うと、家中を探して走り回る。見つけると、さも嬉しそうに振り回し、見つけられないと、フーッとため息をつきしょんぼり「伏せ」をする。こんなしぐさが実に可愛い。

犬好き家族の、どこにでも見られる情景なのだろう。家族の不機嫌を全て吸収し笑顔に還元してくれた。

きれいに草を取り、石を積み直し、手を合わせると、フッと「お墓の前で泣かないで・・」という歌の一節が浮かんだ。下りの山道、涼しい風が一瞬吹き抜け、ティコに舐められた後に似た、ヒンヤリした感触が、汗ばんだ頬に残った。気がつくと、いつの間にか蝉は鳴きやみ、この夏始めて聞く蜩がカナカナと、私達を見送るように1度だけ鳴いた。
戻ります。